私たちは、日常の多くのことを「当たり前」として受け入れています。
言葉の使い方。
人との距離の取り方。
礼儀や空気の読み方。
何を大切にし、何を慎むべきかという感覚。
それらは、いちいち説明されなくても、ある程度共有されているように思えます。
けれども、なぜそれが当たり前になっているのかと問われると、
すぐに答えるのは難しいことも少なくありません。
そう考えると、私たちが当たり前だと思っているものの中には、
すでに深く身についていて、ふだんは見えなくなっているものがあるのかもしれません。
たとえば、人に対してあまりに強く自分を押し出すことに、
どこかためらいを感じることがあります。
あるいは、言葉にしなくても伝わることを期待したり、
場の空気を乱さないことを大切にしたりします。
もちろん、そこには良い面もあれば、窮屈さを感じる面もあるでしょう。
ただ、そのどちらであるにせよ、そうした感覚がどこから来ているのかを考えることには意味があるように思えます。
当たり前であるということは、
何も考えなくてよいということではないのかもしれません。
むしろ、本当に深く身についているものほど、
当たり前の姿でそこにあるのではないでしょうか。
私たちは、目立つものには気づきやすくても、
支えているものには気づきにくいものです。
けれども、日常の中で何度も繰り返される感覚や振る舞いの中には、
自分たちのものの見方をかたちづくっている何かがあるようにも思えます。
それをすぐに定義する必要はありません。
ただ、「当たり前」の中に何かがあるのかもしれないと気づくだけでも、
見え方は少し変わってくるのではないでしょうか。





