和とは、なぜ日本人にとって大切なのか

👁 59 回閲覧

職場の休憩室で、
誰かの一言に空気が止まることがあります。

大きな声ではありません。
きつい言葉でもないかもしれません。

けれど、
その場にいた人が少し黙り、
誰かが湯のみを動かし、
誰かが小さく笑い、
別の誰かが話題を変える。

何事もなかったように、
時間がまた動き出します。

そういう場面があります。

誰か一人が命令したわけではありません。

正しいことを言い返したわけでもありません。

それでも、
その場が壊れないように、
少しずつ調整されていることがあります。

家の中でも同じです。

言えば間違っていない。
けれど、
言い方ひとつで、
その後の食卓が重くなることがあります。

正しいかどうかだけでは、
暮らしは測れない。

そう感じることがあります。

スマートフォンを開けば、
強い言葉がたくさん流れてきます。

正しい人。
間違った人。
怒る人。
責める人。

見ているうちに、
はっきり言うことだけが強さのように思えることがあります。

けれど、
実際の暮らしでは、
はっきり言わないことで守られているものもあります。

相手を見て言葉を選ぶこと。
今は黙っておくこと。
あとで静かに伝えること。
その場を壊さないようにすること。

それは、
ただ我慢することなのでしょうか。

昔の人なら、
和を、
弱さや遠慮として見たのでしょうか。

それとも、
人と人が共に生きるために必要な、
静かな力として受け止めていたのでしょうか。

分かりません。

ただ、
和があるとき、
人は自分を消しているだけではありません。

相手を見て、
場を見て、
そこにいる人たちが壊れないようにしている。

そこには、
目立たない働きがあります。

この感じは、
自分だけのものなのでしょうか。

休憩室の沈黙を思い出すと、
和という言葉は、
思っていたよりも暮らしの近くにあるように感じます。

このまとまりの記事一覧へ戻る

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次