疑問:
なぜ、日本人は人と人との間が乱れないことを、これほど大切にしてきたのだろうか
揺らぎ:
過去:和を、ただ仲良くすることだと思っていた日
現在:暮らしの中で、和がないと物事が進まないと感じる瞬間
未来:和を古い言葉として片づけ、人との関係の支えを見失ってしまう感覚
本文:
職場の休憩室で、
誰かの一言に空気が止まることがあります。
大きな声ではありません。
きつい言葉でもないかもしれません。
けれど、
その場にいた人が少し黙り、
誰かが湯のみを動かし、
誰かが小さく笑い、
別の誰かが話題を変える。
何事もなかったように、
時間がまた動き出します。
そういう場面があります。
誰か一人が命令したわけではありません。
正しいことを言い返したわけでもありません。
それでも、
その場が壊れないように、
少しずつ調整されていることがあります。
家の中でも同じです。
言えば間違っていない。
けれど、
言い方ひとつで、
その後の食卓が重くなることがあります。
正しいかどうかだけでは、
暮らしは測れない。
そう感じることがあります。
スマートフォンを開けば、
強い言葉がたくさん流れてきます。
正しい人。
間違った人。
怒る人。
責める人。
見ているうちに、
はっきり言うことだけが強さのように思えることがあります。
けれど、
実際の暮らしでは、
はっきり言わないことで守られているものもあります。
相手を見て言葉を選ぶこと。
今は黙っておくこと。
あとで静かに伝えること。
その場を壊さないようにすること。
それは、
ただ我慢することなのでしょうか。
昔の人なら、
和を、
弱さや遠慮として見たのでしょうか。
それとも、
人と人が共に生きるために必要な、
静かな力として受け止めていたのでしょうか。
分かりません。
ただ、
和があるとき、
人は自分を消しているだけではありません。
相手を見て、
場を見て、
そこにいる人たちが壊れないようにしている。
そこには、
目立たない働きがあります。
この感じは、
自分だけのものなのでしょうか。
休憩室の沈黙を思い出すと、
和という言葉は、
思っていたよりも暮らしの近くにあるように感じます。

