なぜ、生き方を示す言葉が必要とされたのか

疑問:
なぜ、人が迷いやすい時代には、生き方を示す言葉が必要とされるのだろうか

揺らぎ:
過去:生き方は自分で決めればよいと思っていた日
 現在:何を基準にすればよいのか分からなくなる瞬間
 未来:支えになる言葉を持たないまま、流されてしまうかもしれない感覚

本文:
帰り道で、
今日一日のことを思い返すことがあります。

言いたいことを飲み込んだこと。
何となく合わせた返事。
本当は違うと思いながら、
そのまま流してしまったこと。

大きな失敗ではありません。

けれど、
家に着いて靴を脱ぐころに、
自分は何を頼りにしていたのだろうと、
少しだけ残ることがあります。

スマートフォンを開けば、
いろいろな言葉が流れてきます。

自由に生きればよい。
損をしなければよい。
自分を大事にすればよい。
嫌なら離れればよい。

どれも分かります。

けれど、
それだけを追っていると、
自分の足元がどこにあるのか、
分からなくなることがあります。

生き方は、
その場その場で選べるものなのでしょうか。

昔の人なら、
迷ったときに、
何を見て自分を整えたのでしょうか。

家のこと。
仕事のこと。
人とのこと。
自分だけではどうにもならないこと。

そういうものの中で、
人が立ち続けるためには、
どこかに戻れる言葉が必要だったのかもしれません。

何かに命令されたいわけではありません。

けれど、
何も持たないままでは、
その時々の空気や怒りや損得に、
少しずつ動かされてしまうことがあります。

一日の終わりに靴をそろえながら、
自分の中にも、
立ち戻れる言葉が一つあってよいのかもしれない、
と思うことがあります。

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