疑問:
なぜ、日本の神様を考えるとき、ただの昔話ではなく、暮らし方や受け継ぎ方の問題が見えてくるのだろうか
揺らぎ:
過去:神様の話を、昔話や知識として聞いていた日
現在:古い話の中に、今の暮らしにも触れるものを感じる瞬間
未来:古い話を遠いものとして片づけ、大切な受け止め方を見失ってしまう感覚
本文:
神社の前を通り過ぎるとき、
少しだけ足がゆるむことがあります。
参拝するつもりで家を出たわけではありません。
仕事の帰り道で、
買い物の袋を持ち、
明日の予定を考えながら歩いていただけです。
それでも、
鳥居の向こうにある静けさを見ると、
そこだけ時間の流れが少し違うように感じることがあります。
道のこちら側では、
車が通り、
人が急ぎ、
スマートフォンには次々と言葉が流れてきます。
正しい言葉。
怒った言葉。
変えるべきだという言葉。
古いものを笑う言葉。
そういうものに触れているうちに、
古い話は、
今の暮らしとは遠いもののように見えてきます。
けれど、
日本の神様の話は、
本当にただの昔話なのでしょうか。
昔の人は、
神様を、
遠い空の上にだけ置いていたのでしょうか。
それとも、
朝起きること、
食べること、
人と暮らすこと、
何かを受け取って次へ渡すことの中に、
もっと近いものとして感じていたのでしょうか。
分かりません。
ただ、
神様の話に触れるとき、
すぐに答えを出さなくてもよいような気がすることがあります。
分かるか分からないか。
信じるか信じないか。
その前に、
昔から何が大切にされてきたのかを、
少しだけ静かに見てもよいのではないか。
そう思うことがあります。
神社の前を通り過ぎたあとも、
胸の奥に何かが残ることがあります。
それは、
何かを信じなければならないという気持ちではありません。
自分の暮らしの後ろに、
自分だけで始まったのではない何かがある。
そう感じるだけです。
古い話は、
遠い昔に置き去りにされたものではなく、
何かを受け継いでいくための、
最初のしるしだったのかもしれません。
そう思うと、
何気なく通り過ぎた神社の静けさが、
帰り道の中で、
少しだけ後ろからついてくるように感じます。


