疑問:
なぜ、長く続いてきたものを考えるとき、単なる古さだけではない重みを感じるのだろうか
揺らぎ:
過去:長く続いているものを、古いものとして眺めていた日
現在:続いてきた時間の重さが、ふと気になる瞬間
未来:続いてきたものの意味を知らないまま、古い言葉として通り過ぎてしまう感覚
本文:
古い家の前を通ると、
少しだけ目が止まることがあります。
新しい建物ではありません。
目立つわけでもありません。
それでも、
長い間そこに立ってきたものには、
すぐには言葉にできない重みがあります。
人が住み、
人が入れ替わり、
季節が過ぎ、
それでも同じ場所に残っている。
そう考えると、
ただ古いというだけでは片づけられないものが、
そこにあるように感じることがあります。
暮らしの中でも、
続いているものは見えにくいものです。
毎日の食卓。
家の名前。
誰かから受け取った言葉。
季節ごとの小さな習慣。
普段は意識しません。
けれど、
何かの拍子に、
今の自分が、
自分一人だけで始まったものではないように思えることがあります。
新しいものは目立ちます。
変わったものも、
壊れたものも、
すぐに分かります。
けれど、
長く続いてきたものは、
あまり声を立てません。
そこにあることが当たり前になりすぎて、
かえって見えにくくなります。
続いているということは、
ただ変わらなかったということなのでしょうか。
昔の人なら、
長く続いてきたものを、
ただの形式として見たのでしょうか。
それとも、
そこに重なってきた人の思いや、
受け取ってきた時間を、
もう少し静かに見ていたのでしょうか。
分かりません。
ただ、
続いてきたものの後ろには、
見えない人たちがいます。
壊さずに残した人がいる。
受け取った人がいる。
次へ渡そうとした人がいる。
その一人ひとりの顔は見えません。
けれど、
何かが長く続いてきたということは、
誰かがどこかで、
それを手放さなかったということでもあります。
古い家の前を通り過ぎたあと、
自分が立っている今もまた、
何かを受け取り、
何かを次へ渡していく途中なのかもしれないと思うことがあります。
そのとき、
古いものは、
過去に置かれたものではなく、
今の足元にまだ続いているもののように見えてきます。


