疑問:
なぜ、人と人が一緒に暮らしていくためには、ただ正しいだけでは足りないのだろうか
揺らぎ:
過去:正しいことを言えば物事はよくなると思っていた日
現在:正しさだけでは、人との関係が整わないと感じる瞬間
未来:和を失ったまま、暮らしの中のつながりまで壊してしまう感覚
本文:
食卓で、
言いかけた言葉を飲み込むことがあります。
間違っていると思ったわけではありません。
言えばよかったのかもしれません。
けれど、
今それを言えば、
空気が固くなる。
そう感じて、
箸を置く手だけが少し止まることがあります。
職場でも、
家の中でも、
同じようなことがあります。
正しいことを言いたい。
でも、
それをそのまま出せば、
相手との間に小さなひびが入るかもしれない。
そう思って、
言葉を選ぶことがあります。
スマートフォンの中では、
正しい言葉が強く見えます。
誰かを批判する言葉。
間違いを指摘する言葉。
白黒をはっきりさせる言葉。
読んでいると、
それがすべてのように思えることがあります。
けれど、
実際の暮らしは、
正しさだけでは進みません。
家族と暮らすこと。
職場で働くこと。
近所の人と顔を合わせること。
そこには、
相手を負かさず、
自分も消えすぎず、
何とか一緒にやっていくための感覚があります。
この感じは、
自分だけのものなのでしょうか。
昔の人なら、
和というものを、
ただ仲良くすることとして見たのでしょうか。
それとも、
人と人が壊れずに暮らしていくための、
もっと深い支えとして受け止めていたのでしょうか。
分かりません。
ただ、
言葉を飲み込むことが、
いつも弱さだとは限らないのかもしれません。
言わないことで、
守られるものがあります。
言い方を変えることで、
続いていく関係があります。
正しさを捨てるのではなく、
正しさだけで壊してしまわないようにする。
その感覚が、
人と人が一緒に暮らすために、
必要だったのかもしれません。
その日の食卓の静けさが、
少しだけ違って感じられることがあります。


