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食卓で、
短い返事だけが返ってくることがあります。
怒っているのか。
疲れているだけなのか。
何か言いたいことがあるのか。
聞けばよいのかもしれません。
けれど、
その一言を聞く前に、
こちらの方でいろいろ考えてしまうことがあります。
今は話しかけない方がよいのか。
少し待った方がよいのか。
こちらが何かしたのか。
そうしているうちに、
自分の疲れまで重なってくることがあります。
職場でも同じです。
上司の表情。
同僚の沈黙。
家族の声の調子。
返信の遅さ。
言葉にされていないものを、
つい読もうとしてしまいます。
それは面倒なことです。
察しすぎれば疲れます。
言われていないことまで背負えば、
自分が苦しくなります。
けれど、
察することは本当に、
ただの弱さや遠慮なのでしょうか。
スマートフォンの中では、
言いたいことをはっきり言う人が強く見えます。
言わなければ分からない。
察してほしい方が悪い。
そういう考え方もあります。
たしかに、
言葉にすることは大切です。
けれど、
すべてを言葉にしなければ成り立たない関係だけでは、
少し寂しい気もします。
この感じは、
自分だけのものなのでしょうか。
昔の人なら、
察することを、
ただ我慢することとして見たのでしょうか。
それとも、
相手を見て、
場を見て、
言葉になる前のものを受け止める力として、
大切にしていたのでしょうか。
分かりません。
ただ、
察することの中には、
相手に振り回される苦しさだけではなく、
相手を見捨てないための細かな働きもあるのかもしれません。
そう思ったとき、
食卓の短い沈黙が、
ほんの少しだけ違って聞こえてきます。





