疑問:
なぜ、國という大きなものが、日々の小さな暮らしとどこかでつながっているように感じるのだろうか
揺らぎ:
過去:國を、自分の暮らしから遠いものとして見ていた日
現在:日々の生活の中で、大きなつながりを感じる瞬間
未来:自分の暮らしと國を切り離したまま、支えを見失ってしまう感覚
本文:
朝、家の前を掃いている人を見かけることがあります。
誰かに言われたわけでもなく、
大きな仕事として見られるわけでもありません。
ただ、
自分の家の前を整え、
通る人が歩きやすいようにしている。
それだけのことかもしれません。
けれど、
そういう姿を見ると、
暮らしは自分一人の中だけで終わっていないのだと、
少し感じることがあります。
國という言葉は、
普段の生活では大きすぎるように見えます。
ニュースの中のもの。
政治の中のもの。
遠いところで決まるもの。
そう思うことがあります。
けれど、
朝の道を整えること。
家の中を荒らさないこと。
仕事を投げ出さないこと。
人と顔を合わせて挨拶すること。
そうした小さな暮らしの積み重ねも、
どこかで大きなものに触れているのかもしれません。
スマートフォンの中では、
國の話は強い言葉になりがちです。
怒り。
批判。
正しさ。
対立。
それを見ていると、
自分の暮らしとは関係のないもののように感じることがあります。
けれど本当に、
人と國は切り離されたものなのでしょうか。
昔の人なら、
國をただ遠い制度として見たのでしょうか。
それとも、
日々の務めや、
家のことや、
人との関係の中に、
自然につながるものとして感じていたのでしょうか。
分かりません。
ただ、
大きなものは、
遠くにだけあるのではないのかもしれません。
朝の道を掃く音を聞きながら、
自分の小さな一日も、
どこかで広いものへ続いているように感じることがあります。


